新しい家の庭は、たいてい、少しさびしいものです。植えたばかりの木は細く、地面はまだよそよそしくて、雑誌で見たような緑ゆたかな庭とは、ずいぶん違う。
でも、それでいいのだと思います。庭は、引き渡しの日に完成するものではなく、そこから何年もかけて、その家のものになっていくものだからです。
完成した庭を、一日で手に入れられる時代に
お金を出せば、今はほとんど何でもそろう時代です。大きく育った木を運び込み、石を据え、一日で「見栄えのする庭」を作ることもできます。
それを否定はしません。美しい庭は、見ているだけで気持ちがいい。けれど、外構と庭づくりの現場に長くいると、一日で完成させた庭と、時間をかけて育てた庭は、どこか違うと感じます。
違うのは、そこに積もっている時間の量です。
木は、家族と一緒に大きくなる
家を建てた年に、記念にとシンボルツリーを一本植える家があります。子どもの背丈ほどしかなかった木が、何年かして子どもを追い越し、やがて、その木の下で夏に涼めるくらいの日陰をつくるようになる。
その木には、値札のつけようがありません。同じ種類の木を、同じ大きさで買ってくることはできても、その家の子どもと一緒に大きくなった、という時間だけは、お金では買えないからです。
庭の価値は、たぶん、そういうところにあります。どれだけ立派な木を植えたかではなく、その木とどれだけの時間を過ごしたか。手をかけた分だけ、庭は静かに返してくれます。
手をかける、という付き合い方
庭を育てるというのは、手間がかかるということでもあります。
春に伸びた枝を切り、夏に水をやり、秋に落ち葉を掃き、冬に備える。正直なところ、面倒だと感じる日もあるでしょう。
けれど、その手間こそが、庭を自分のものにしていく時間です。毎年同じ木の世話をしていると、去年より枝ぶりがよくなったとか、今年は花のつきがいいとか、その庭の小さな変化に気づくようになる。
手をかけない庭は、ただそこにある庭のまま。手をかけた庭は、その人の暮らしの一部になっていきます。この違いは、住んでみて何年かして、はじめて分かるものかもしれません。
記憶が積もっていく場所
庭は、家族の時間がしみこんでいく場所でもあります。
子どもが土いじりをした花壇、バーベキューをしたウッドデッキ、毎年きまって花を咲かせる一角。そういう場所には、写真には残らない記憶が積もっていきます。
やがて子どもが家を出て、庭を使う人が減っても、その木や花は、ここで過ごした時間を静かに覚えています。六十年この地域で庭を作ってきて、そういう庭をいくつも見てきました。何十年も前に植えた木が、今もその家の顔になっている。作った当人はもういなくても、木は残って、季節ごとに家族を見守っている。
庭というのは、そういうふうに、時間を超えて残っていくものなのだと思います。
最初から完璧を目指さない
だから、家を建てるとき、庭のすべてを一度に完成させようとしなくていい。
暮らしに要る部分——駐車場やアプローチ、境界——は先に整える。けれど、木を何本植えるか、花壇をどこに作るか、そういう「育てていく部分」は、住みながら決めていけばいいのです。
実際に暮らしてみると、朝日がどこから入るか、西日がどの壁を焼くか、風がどこを抜けるか、図面の上では分からなかったことが、体で分かってきます。その感覚に合わせて、一本ずつ木を足していく。
そうやって少しずつ手を入れた庭は、どこかで買ってきた完成品ではなく、まぎれもなくその家の庭になります。
育てるという、豊かさ
お金を出せば、完成した庭はすぐ手に入る。でも、時間をかけて育てた庭には、お金では買えないものが宿ります。
木と一緒に過ごした年月、手をかけた分だけ深まる愛着、そこに積もった家族の記憶。それらは値段のつけようがなくて、でも、たしかにその家の宝になっていく。
庭は、買うものではなく、育てるもの。新しい庭が今はまだ少しさびしくても、心配はいりません。これから、あなたと一緒に、ゆっくり育っていくのですから。